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ホテルかずさや

創業は1891年。おかげさまで135周年を迎えます。日本橋の歴史を伝える老舗ホテルとしての想いを新たに、江戸の粋を感じる日本橋ならではのホテルを目指します。

ホームページ
https://www.h-kazusaya.co.jp/
住所
中央区日本橋本町4-7-15
電話番号
03-3241-1045

十思公園と蔦重ギャラリー

十思公園と蔦重ギャラリー

二代将軍・徳川秀忠のときに、日本橋本石町に築かれた鐘楼堂に納められた「石町時の鐘」は、「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と詠まれるなど、江戸の人々に時を知らせる手段として欠かせない存在となりました。さらに「石町の鐘はオランダまできこえ」と、長崎から参府するオランダ商館長が定宿とした長崎屋が近くにあったことになぞらえて詠まれた川柳もあります。また、本石町の鐘楼堂から数百メートルのところに伝馬町牢屋敷がありました。ここに収監された囚人たちの処刑もこの鐘の音を合図に執行されたため、処刑者の延命を祈るかのように遅れて撞かれたとも伝えられています。そんな時の鐘も、明治になるとその役割を終え、本石町の油問屋・松澤家(大坂屋孫八)の手に渡り、保管されていました。関東大震災後には東京都へ移管され、復興公園として整備された「十思公園」内に建造された鐘楼堂に移設されました。

「十思公園」は、その周辺施設も含め伝馬町牢屋敷の跡地にあります。幕末の動乱期に、安政の大獄に連座した吉田松陰も、この地で終焉のときを迎えました。公園には「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留とどめ置かまし大和魂」という辞世の和歌が刻まれた石碑が置かれています。この和歌は、松陰が門下生のために遺した「留魂録(りゅうこんろく)」の巻頭に収録されたもので、石碑は直筆の文字を拡大して彫刻されているそうです。そんな松陰が成した最も偉大な事業といえば、松下村塾での教育でしょう。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋等、松下村塾生の働きが大きな力となって、明治維新という大きな変革を実現させました。彼らは、知識を習得するばかりではなく、志を持って信念を貫いた松陰の生き方を通して、近代日本の礎を築く力を身につけたのだと思います。

さて、ホテルかずさやにもほど近い本町通り(旧日光街道)は、江戸でも一番の繁華街でした。吉原大門近くで書店を開業した蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎は、この本町通りに移転して地本問屋「耕書堂」を開きました。耕書堂は単なる本屋ではなく、出版も手がける版元として、葛飾北斎や喜多川歌麿、東洲斎写楽などの絵師の作品や、山東京伝や大田南畝などの戯作者の作品を出版しました。蔦重の出版物は、江戸庶民の暮らしや風俗、文化を鮮やかに映し出し、耕書堂は知識や芸術を広める江戸文化の発信拠点として、多彩な出版物を世に送り出しました。さきほどの十思公園に隣接して建てられた十思小学校は廃校となり、その校舎を再利用した複合施設が「十思スクエア」です。NHKの大河ドラマ「べらぼう」の放映を機に、地元の町会が中心となって立ち上げた「蔦重日本橋プロジェクト」の一環として、十思スクエア本館2階に開設されたのが「蔦重ギャラリー」です。入場は無料、写真撮影にも制限はありません。復刻版の黄表紙や浮世絵など、蔦重の足跡を感じることのできるギャラリーです。※2026年3月中旬迄の開催予定

蔦屋重三郎と吉田松陰、生きた時代もそれぞれの生き方も異なる二人ではありますが、二人の人生の節目となる地として、日本橋でつながっている点に興味を感じます。片や本というメディアを通して文化を発信し、片や塾生たちと直接向き合う教育を通じて次代を担う人材を育てた。共に知識と思想のチカラによって社会に変革をもたらそうとした点で、二人には時代を越えて交差し、響きあうものがあるように感じるのです。そして、同じく日本橋の地で事業を営む一人として、私たちホテルかずさやも、この街の歴史と伝統、江戸の精神を受け継ぎながら、心和む、くつろぎの時と空間を、提供し続けていきたいと願うのです。

十思公園と蔦重ギャラリー

住所
東京都中央区日本橋小伝馬町5−2
十思公園と蔦重ギャラリー

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